退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

【獣道弐・ストリートファイターV】東大卒プロゲーマー・ときど VS. 生ける伝説・ウメハラ――「ゲームの中でくらいは勝ちたかった」の真意に関する私見

はじめに

 去る3月10日(土)、埼玉県のゲームセンター「デイトナ志木」にて、プロ格闘ゲーマー同士の誇りをかけた戦いが行われた。戦ったのは、東大卒プロゲーマーで2017年間違いなくトップの成績を収めた「ときど」と、ストリートファイターII以来20年以上格闘ゲーム界の頂点に君臨する男「ウメハラ」。

 結論から述べると勝負はウメハラの勝利に終わった。試合後コメントを求められたと敗者ときどは涙ながらに「ゲームの中でくらいは勝ちたかった」と語った。それをうけたウメハラは冗談めかしながらも「ゲーム以外全部勝っていると思うんだけど」と返した。たしかに、ときどは高学歴であり、ルックスも上々、ウメハラより若く、性格やプレイ、ゲームに取り組む姿勢も秀才というほかない。しかしそれでもときどは自らをして、あらゆる点でウメハラに劣ると見なしているのである。どうしてこのようなことが起こるのか、筆者なりの感情がこみ上げて仕方がなかったので筆を執った次第である。

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獣道とは

 獣道とは、プロゲーマー・ウメハラが中心となってマッチメイクを行い、一対一の長期戦の形式で勝負をするという格闘ゲームのイベントである。前回が第一回であり、またその前身としてストリートファイターIIのレジェンドマッチが行われた。

 このイベントの特殊性を理解するには、通常行われるトーナメント形式と比較するのが手っ取り早いだろう。トーナメントの場合、参加者は数百名にもおよび、それらを捌くため試合は大体2試合先取か3試合選手の形で行われる。この場合、トーナメントの勝ち残りに応じて対戦相手が変化するため、誰と対戦することになるかの見通しが立ちづらく対策が困難、また短いスパンで行われるため奇襲、奇策といった戦法で勝ちを広く事も珍しくない。

 これに対して獣道のような対戦相手が事前にわかっており長期戦で試合を行う形式では、奇策の類だけで勝利をもぎ取ることは難しく、加えて対戦相手のキャラクター、クセなどを徹底的に対策した上で試合に望むことになる。そのため、「たまたま」、「偶然」といった言い訳が介在する余地なく、彼我の実力差をさらすことになるという非常にシビアなイベントと言えるだろう。

 

試合の内容

 事前の予想ではどうやらウメハラ優勢との声が多かったようである。というのも、ストリートファイターV以前の話になるが、ストリートファイターIVでそれぞれ当時世界最強との呼び声高かった韓国のInfiltration選手、シンガポールのXian選手を、ウメハラは獣道と同様のタイマン長期戦形式の試合では下しており、このように対策を極めたウメハラと対峙するのは、いくらときどであっても力不足なのではないかと考えられたからである。

 これに対して、ときどが使う豪鬼というキャラクターの性質、また2017年シーズンの好調などからときどを推す人々がいたのもまた確かである。たとえば、ときどとの仲も深いプロゲーマー・ふ~どは、InfiltrationやXianらと違いときどはウメハラに対して徹底的な対策をしてくるだろうからと、ときど勝利を予想していた。

 

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 果たして結果は、大方の予想通りというべきか、梅原が勝利を収めた。10試合先取のなかで、ときどは序盤こそ2-2に持ち込むなど健闘を見せたが、その後は2-4、3-9と勝ち星はウメハラに転がり込んでいった。3-9とあとがない状況からときどは2本取り返すものの、その後ウメハラが勝利、最終スコアは5-10と、数字の上ではダブルスコアに終わった。

 この試合に関して筆者から述べることがあるとすれば、それはウメハラの卓越したディフェンス力だろう。ウメハラが使うガイルというキャラクターは、アウトレンジでの立ち回りにはめっぽう強いものの、ひとたび懐にもぐられてしまえばそのままKOされてしまうこともあるという性質を備えている。さらにときどの豪鬼は、一度攻めの主導権を握りさえすれば、すべてを破壊する攻撃力をもったキャラクターである。それゆえ、ウメハラの攻撃をかいくぐり、どれほど踏み込んでダメージを稼げるかがこの試合の見所になるだろうと筆者は予想していた。

 しかし、再三インサイドへの侵入を許しながらもウメハラの牙城が崩れることはなかった。それどころか、ときおり垣間見える突破口を前にして、ときど側がミスをする場面がみられるなど、その鉄壁ぶりは対戦相手の焦燥、自滅を誘うほどであった。どちらが勝ってもおかしくないラウンドがことごとくウメハラに入っていたが、これは運ではなく、ウメハラのプレイが引き寄せた必然だろう。スコアに現れているとおり、あるいはそれ以上に、ときどにとっての敗北感は大きかっただろうと推測する。

 

「ゲームの中でくらいは勝ちたかった」――秀才の抱える無力感

 そして話は本記事冒頭の場面に移る。決着の後、司会からコメントを求められたときどは、うなだれ憔悴し、嗚咽をこらえながら「ゲームの中でくらいは勝ちたかった」と語った。これに対し、ウメハラは「ゲーム以外全部勝ってると思うんでけど」と返した。冒頭でも触れたとおり、ここでの二人の見解は真っ向から矛盾している。ときどは「ゲーム以外すべてウメハラに負けている(そしてついにはゲームの中でも圧倒された)」と考えているのである。彼ら二人は「ゲーム以外」という言葉で何を指し、互いの何を羨望しているのだろうか。

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 まず、比較的分析が平易であろうウメハラの方から触れる。彼が「ゲーム以外」と言う際、おそらく念頭においているのは学歴だろう。というのも、東京大学を卒業したときどに対し、ウメハラは大学への進学をしていない。そして周りでときどのコメントを聞いた人のうちにも上のように考えた人がいるだろう。「ウメハラはゲームやってなければその辺で野たれ死んでいたかもしれないが、ときどはそうではない。ゲームを選択しなくても、研究者や官僚、大企業への就職の道などいくらでもあったはずだ」と。

 ウメハラの発言に対して、ときどの真意は少し推し量りづらい。というのも、上で述べたように「ゲーム以外」の部分では一見するとときどが優れているように見えるからだ。

 これは筆者の私的な意見、かつ個人的な経験によるものだが、一般に高学歴と呼ばれる人々は、その実自分に自身がもてないことが多いように思う。これにはいくつかの原因が考えられるだろう。たとえば、受験勉強などは親や教師に強いられてきたからやってきたのであって、人生における真の選択など自分では行ってこなかったのだと考える人もいれば、同じ大学における圧倒的天才を目の当たりにして、自分の凡才っぷりに挫折する人もいる。さらに、企業への就職や結婚などを経ても、「自分が評価されるのは○○大学卒という看板のおかげであって、ありのままの自分が評価されるわけではない」という意識にさいなまれる人もいる。

 おそらくではあるが、ときども少なからずこうした意識を持っていたのではないだろうか。そうだとすれば、学歴にもよらず、日本におけるプロゲーマーの第一人者として、そして固有名詞「ウメハラ」として自ら道を拓き続けてきた男は、ときどにとってどれほど憧れ、また手の届かない存在だっただろうか。

 

ふたりの距離の概算

 対戦前のインタビューでときどはウメハラのことを「全然追いつけていない」、「後ろ姿が見えていない」と語っていた。この試合を通じて、ときどは一層ウメハラとの距離を感じているかもしれない。しかし筆者はウメハラ、ときどの間の距離は間違いなく詰まっており、もはやその背中に手をかけようとしているのではないかとすら感じている。

 確かに、結果だけ見ればウメハラの完勝である。ところが逆説的にではあるが、これほどの敗北を喫してなお、ありのままの悔しさを見せたときどに、多くの人が感動し、尊敬の念を抱いているのである。これはまさに、勝利(あるいは学歴)といった「結果」や「パッケージ」を超越した領域で人の心を打つという、ときどがあれほど欲していた次元に実はすでに彼がいるということを示唆しているのではないか。

 しかし、ときどは「負けたけど周りが感動してるし良かったなー」などと安穏とする男ではないだろう。次があれば、もう一回り大きく、強く、そして人の胸に傷跡を残すプレイをときどが見せてくれると筆者は確信している。

 

Good Game, well played!