退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

20171004

アルバイトのために7時半起き。朝ごはんを仕度して食べる。シャワーと坐禅。いい坐禅ができなかった。でもよくない坐禅でも別にいいのである。

歩いて学校へ。バイト。テレテレと終わらせる。論文を書かなきゃいけないんだけど、なかなかやる気が起きなくてついつい関係ない本を読んでしまう。共依存の本。すごく勉強になった。論文から逃避しすぎて1日で読み終わってしまった。本題は全然進んでない。帰って晩ごはんを食べて、ゲームをして寝る。明日もバイトなので早寝。今日もよく生きた。

モテ本から進んで最近はアルコール依存やDV、共依存とかモラハラ摂食障害とかに関心がある。なぜなのか。ひとつは人に優しくしたいからだ。それは依存症や摂食障害の人を助けたいということではない。それは驕りだ。人を助けることで支配するという例は枚挙に暇がない。だからそうじゃない。

そうではなく、わたしが「優しくしたい」というのは無神経なことを言わないってことだ。他者の苦しみを完全に理解することは叶わない。それでも少しでも分かるという束の間の幻を得たい。人を救う言葉。ここで真理はドロっとしている。

あと、アルコール依存や摂食障害を生み出す家族の構造を知ると心が安らぐ。これは自分のある意味では不道徳なところだ。文学を読むのに少し似ている。普通の人が想像する幸福で典型的でない型の家族というのはいくらでもいて、それを知ると「そんな生き方でもいいんだ」と肯定される気がする。当人からしたらたまったもんじゃないだろうけど。

そうした社会の破れを目の当たりにすることで、束の間息ができるときがある。束の間幻を見る。束の間理解を得る。そしてこれが幻であることにしばらくしたら気がつくんだろう。その気づきもまた束の間の幻だ。そしてほんとうの、最後の気づきはない。それでも気づきの幻は概念的にほんとうの気づきに依存している。