退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

自殺したくなって、いのちの電話に200回電話をかけた話

ある夜、ものすごく死にたくなってほうぼうに電話をかけまくるということがあったので、ここにメモ書き程度のものを残しておく。

 

8/15の夜から8/16の未明にかけて、自分がいままで感じたことがないほど強烈な不安というか死にたさというか、情けなさみたいなものが襲ってきた。自分が高いところにいたということもあって、自殺というチョイスをするんじゃないかという恐れ、そしてそれを選択する自分を自分で止めることが出来ないかもしれないという恐れから関西やその辺のいのちの電話に一晩かけ続けた。

自分は初めてああいうものに電話を掛けたが、これがさっぱりつながらない。ずっと話し中である。そういうものらしいが、これには参った。たまらず実家の母親に電話をかけた。

ずいぶん夜遅くだったもんで母親も困惑していたが、要するに死ぬなと言われた。基本的に言われたのは二つのこと、すなわち考えすぎ、みんな苦しいということだった。考えすぎに関しては、悪い考えがどんどん浮かんで自分を苛むのは仕方がないという感じだ。またみんな苦しい、苦しいながら生きてるんだという話はこの私の救いにはならない。他の人がどれほど苦しんでいることを知っても私の苦しみが無くなるわけじゃない。それに自分は他人が苦しんでいることをしっている。知っているからこそ「自分程度の苦しみでねを上げてはいけないんだ」という陥穽にはまってしまうのだ。

こんなわけで母親との会話の内容自体はまったく自分の辛さを減じなかった。むしろどんどんイライラした。「親より先に逝くのは最大の親不孝」だの「これまで育ててきた」だのというのは全く向こうの都合で自分の心を見てくれていないと感じた。とはいえしょうがないことではある。人は人の立場に立つことなんてできないんだから。母親との会話はこんな感じ。

その後もやはり死にたかったので、いのちの電話にかけ続けたがやはりつながらない。業を煮やして119にかけると、精神科救急の番号を教えられた。そこではいのちの電話みたいのは本来の業務ではないらしく、発狂したキチガイの連中をどうにかするのがもともとらしかった。とまれそこで少し話を聞いてもらう。学校なんて行かなくてもいいんじゃねえのっていうのと人生これからやでと言われる。まあそんなもんか。

やはり死にたかったので引き続き電話をかけ続ける。深夜3時、ついにいのちの電話につながる。応対してもらったボランティアの人は、自分が何か言わない限り何も言わず、じっと聞く姿勢を取っていた。これまでの二人との違い。自分はもうこれまででくたくただったし、どうにも喋る気がせずほぼ無言電話みたいなことになった。そのまま15分ほどが経過し、自分から切った。

次の日にやること、次の次の日にやることもあって頭がいっぱいで、そのまま一睡もできなかった。

 

どうしてこうも死にたくなったのかとか、これからどうするのかとかあるかもしれないが、とかく面倒なので書かない。というか自分は電話口で「分からない、分からない」と繰り返していたので、今その分析に移るのはあまりにも早い。今は落ち着いているがこんなことをするのって客観的に考えたらけっこうメンタルヘルスに負担がきてるひとのふるまいだとおもう。しかし、やっぱり自分のことはわからない。というわけで話を変えて、いのちの電話の無能さについてもう少し書いておこう。

まず24時間相談を受け付けている窓口が限られている。お天道様が照ってる時に本気で死にたいなんてのは、少なくとも自分は思わない。深夜考えが煮詰まって、それで話す人もいないという時にこそ死にたさが去来する。そんな時間に「申し訳ございませんが、ご相談は午後8時までとさせていただいております」などというアナウンスを聞かされるのは、本当に馬鹿馬鹿しくて言葉もない。次に先も述べたが、電話の繋がらなさである。深夜に相談を受け付けている窓口は限られているから電話もそこに殺到するのだろう、ずっと話し中である。「一人で悩まず相談しましょう」だのとほざいているくせに繋がらないとは何事か。また電話をかけて、通話中でかからなかったということがディスプレイに表示されるとともに「ツー、ツー」という電子音が響くというのはどことなく心に刺さる。それを200回も繰り返せばなおおさらである。

とはいえいのちの電話はボランティアで運営されているらしく、そこまで悪し様には語れないのである。国にはどうにかしてほしいものだ。

 

最後に、これまでのことを書いてて気づいたことを書く。人は何事かを語るときにすっかり相手の立場に立つということはできない。しかし聞くということ。聞くということは相手に自分の異質な意見をぶつけずに済む。聞くことによって相手の立場に立つわけではないが、寄り添う姿勢を示す(そう、決してその態度を語るのではなく、示すのである)。ただ聞くことがこういう含意を持ちうるということをふいに気づいたので、これまたメモ書き程度のものとして残してこの回を終わらせる。