退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』の虚栄心の話

以下、『哲学宗教日記』(訳 鬼界彰夫)からの引用。強調は引用による。

 

「もしキリストの奇跡、例えばガリラヤのカナの結婚式の奇跡をドストエフスキーがしたように理解しようとすれば、それは象徴として理解しなければならない。水をぶどう酒に変えるのはせいぜい驚くべきことであるに過ぎず、そうしたことが出来る人間を我々は呆然と見つめるだろうが、それだけのことである。つまりそれは素晴らしきことにはなりえないのだ。(中略)奇跡とは、それを奇跡的な精神でなす者がなした場合にのみ奇跡なのである、とも言えるだろう」

「私はすべてを自分の虚栄心で汚してしまう」

「時々私は人間を玉として想像してみる。あるものは全部本物の金でできている。別のあるものは表層が無価値な材質でできていて、その下が金になっている。また別のものは表面が紛らわしいニセの金メッキで、その下が金。さらに別のものは金メッキの下がゴミになっており、また別のものはそのゴミの中に小さな本物の金の玉がある等。多分最後の種類が自分なのだと信じている

「罪を負った良心は簡単に告白できよう。虚栄心の強い人間は告白できないのだ」

「自分の告白について考えるとき、「もし愛がなければ…」という(コリント人への手紙におけるパウロの)言葉を理解する。というのもこの告白も、もしそれが言ってみれば倫理的芸当として為されるならば、私にとってなんのためにもならないからである。しかし私が言いたいのは単なる倫理的芸当では不十分だったから告白するのを見送った、ということではない。告白するには自分があまりにも臆病だったのだ。(倫理的芸当とは、何が自分にできるかを示すために私が他人に、あるいは単に自分自身に対して演じる何かである)」

 

何かを付け加えようとは思わないし、付け加えて何かを言うことが出来るとも思わない。正確に彼の言わんとすることを理解しようとは初めから考えてない。自分の中のある琴線に触れたのでダラダラ書く。他人の善意、他人の善性を信じることは本当に容易だが、自分のそれを信じることは難しい。自分は簡単に人のもの盗めるし、人を欺くことが出来るだろうと思う。難しいのは、自分が心から他人に尽くすということだ。それが浅ましい虚栄心からなされたものではないと信じるには自分のしょうもなさがあまりも自分に対して知られている。

奇跡的な事実、上ではガリラヤのカナの婚礼の例が挙げられているが、私たちは普通それを奇跡的な精神のある種の表出だと考えるだろう。しかしウィトゲンシュタインはそのような考え方を否定する。そのような奇跡的な事実によってすら奇跡的精神が証立てられないならば、私は何を持って自分の精神が金であることをほんの少しでも信じたらいいのか。また私が行う告白もまた、「倫理的芸当」である疑いを免れないのである。

自分がよく使う話だが、一休宗純は袈裟を着た高僧に「袈裟というのは煩悩を消し去りたいという煩悩の表れに過ぎない」と言って非難したそうだが、「「袈裟というのは煩悩を消し去りたいという煩悩の表れに過ぎない」という発言は煩悩を消し去りたいという、あるいはその構造を看破したという驕りの表れに過ぎない」と返すことが出来るだろう。そして上述の発言もすぐに煩悩ゲームの内側に入ってしまう。

これを打開するには黙して生きるしかない。だがその沈黙にもまたある種の虚栄が付きまとうことには違いない。

 

この記事自体また驕りであり、虚栄心であり、倫理的芸当であり、煩悩の表れに過ぎないのである。という前文もまた

 

偉そうに何かを考えたとか言いたくない。ウィトゲンシュタインと違って俺は底抜けに阿呆だし、ものも知らない。ただ恥ずかしい。