退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

哲学論文の書き方 How to Write a Philosophy Paper(後編)

イエール大学の哲学科教授シェリー・ケイガンによる、哲学論文の書き方に関する指南の翻訳をしたものの後編です。前半はこちら。

boring-story.hatenablog.com

それでは以下、翻訳です。

 

4. いい哲学論文を書く上で、とりわけ重要となるいくつかの点について述べさせてほしい。これは明らかなことだが、良い論証を持つというのは重要なことだ。君の評価の大部分は、自身のテーゼをどれほどうまく擁護できているかによって決まる。しかし、それ以外にも、良い論文を書く上で強調しておくべきいくつかの一般的なポイントがある。(そのうちの多くはすでに述べたことだが、繰り返すに値するものだ。)第一に、論文はよく構成されていなくてはならない。つまり、根底にあるアウトラインは、考えの論理的な進行を反映したものでなくてはならない。第二に、先ほどの点と深くかかわるが、論文には、そこではっきりと述べられた目的に関連する題材だけが含まているのでなくてはならない。論文におけるどのアイデアも、中心となるテーゼを主張し、それを擁護しているはずだ。たしかに、多くのアイデアが君の扱っているトピックに広く関連しているかもしれないが、君の立場や君の論証には無関係だ。君の役には立たないものは、すべて切り捨ててしまおう。

 第三のポイントは、シンプルに、専門用語の少ない文章を書くことだ。長くて複雑な文章は理解しづらいことがある。そして、専門用語はコミュニケーションの障害になることがあるし、ひどいときには曖昧さや混乱を覆い隠すこともある。君は本当のところは理解していないという事をわかりづらくしてしまうことがある。人はしばしば、深遠な問題は深遠そうな言葉で論じられる必要があると考えるものだ。だが、これは単なる誤りだ。君の考えを、シンプルで直接的な言い回しで表現してはならない理由はない。(もちろん、時にはある程度の量の哲学的な専門用語の使用は避けられないし、それが役に立つこともあるだろう。しかし、その使用はできるだけ少なくするべきだ。そして、論文中で用いられるそうした専門用語の意味に関しては、かならず丁寧に説明するべきだ。)

 第四に、先に挙げたポイントと綿密にかかわるが、可能な限りクリアであろうと努めることは、絶対的に重要だ。自分のアイデアはできるだけ丁寧に述べ、それを完全にはっきりさせよう。何かを「ほのめかし」たり、君の考えの方向性だけを「指し示し」たりしてはいけない。君が頭の中に抱いている考えが、誰にとっても「明白」だろうなどと考えてはいけない。(考えが明白なはずは決してないし、それより自分が混乱しているとか、少なくとも不明瞭だというのは大いにありうることだ。私は生まれてこの方、君の頭の中に入ったことなどない。)たとえ君にとってはあまりに明白でいちいち述べ立てる必要がないと感じられても、論証の各ステップをはっきりと述べよう。思考の道筋がどうなっているかを正確に説明しよう――AからBへ進み、そしてCをとばしてKへと至るのは、どのようにしてなのか、なぜなのかといったことを。読者のために「道路標識」を立ててあげよう。つまり、これまで論文が何を示したかを振り返り、目的地にたどり着くためにどこに行く必要があるかを告げてあげよう。たとえば以下のような調子だ。「私の立場を擁護するために、私は二つの論証を提示する。第一の論証には三つの前提があり、それは……である。では前提のそれぞれについて考えてみよう。第一の前提とは……であった。なぜ私がこの前提は説得的だと考えるのかというと、以下の理由のためだ……。しかし、この前提に足しては反論があり、それは……である。そしてこの反論に対して私は……と応答する。これによって、三つの前提のうち第一のものは守られた。第二の前提を思い出してほしいのだが、それは……であった。」などといった具合である。すべての事柄を、君にできる限り最大限はっきりと述べよう。

 明白な事柄をあまりに説明しすぎて、君は死んだ馬に鞭を打っているように感じる段階にまで至るかもしれない。大いに結構なことだ。私はいずれにしても馬に鞭を打ってほしいと思っているのだから。これまで学生に教えてきた中で、この方向で行き過ぎた論文というのを私は見たことがないし、逆にその点で十分でない論文は何百も見てきた。だからお願いしたい。君の論文をありうる限り明白にするために、できることは何でもやってほしい。(もし最終的に君の論文がこの点に関して行き過ぎていたならば、私は、次の論文では手を緩めるよう、喜んでお願いするだろう。)

 物事をはっきりと述べることのもう一つの側面については、特別に注意を促すに値するかもしれない。君が論文で誰かほかの人を引用したならば、――たとえそれが課題図書の中の一つだったとしても――必ず引用に続けて、その引用が何を意味しているのか、君自身の言葉で説明するようにしよう(大体の場合、引用というのはそれ自体で意味が分かるようなものではない)。引用した著者が用いている専門用語のすべてを君自身が説明する必要があったり、あるいはある見解を擁護する著者自身の理由を、君が要約しなければならないかもしれない。いずれにしても、引用というのは(専門用語のように)慎重に用いなければならないものだ。最小限にとどめよう。

 

5. 私に提出する論文を執筆するうえでやらなくてよい二つのことがある。第一に、「調査」をする必要はない――少なくとも、調査ということで、余分に本を読んだり、扱った著者の他の文献を見たり、何らかのトピックに関する二次文献を見たりすることを君が考えているならば、調査は不要だ。そうした学術的な調査が重要であり、ほかの授業ではこうした作業をうまくこなすことがよい論文を書くために必要な準備ということもあるだろう。しかし、私の授業ではこのようなことをする必要は(通常は)全くない。実際、こうした調査をしないでほしいと強く思う。というのも、私が本当に関心があるのは、関連する哲学的問題について考えるなかで、君が何にたどり着いたのかということだからだ。私は、ほかの人の思考からアイデアやインスピレーションを得るよりも、君自身の手で自ら問題に取り組んでほしいと思う。手短に言うと、君には時間を費やして哲学的省察を行ってほしいのであって、学術調査をしてほしいわけではない(哲学において調査を行う方法は、まず哲学的に考えることだということをわかってほしい。実際、これが一番の方法である)。

 (言うまでもないことだが、もし私のアドバイスを君が軽視して何らかの調査を行い、そして他人の著作から得たアイデアを自分の論文に組み込んだならば、必ず適切な仕方ではっきりとその旨を論文中で記す必要がある。もちろん、これは有名な哲学者じゃなくて「ただの友人」からアイデアを借りた場合でも同様だ。)

 しかし、もし君が学術的な調査をして、これまでどういう見解が議論されてきたのか、どのような論証や反論が表明されてきたのかを調べないならば、他の誰かがすでに述べたことをただ繰り返すだけという可能性があるのではない、と考えるかもしれない。確かにその通りだ。その意味では、君の論文が「オリジナル」なものではないという可能性は大いにある。しかし、それでもいいのだ。私に向けて論文を書く際に君がしなくてもよいもう一つのことは、これまで誰も言ったことのないことにたどり着くことだ。君には、哲学的諸問題を自分で考える過程で何らかの経験を得てほしい。たとえ車輪の再発明を行うことになっても、こうした経験を得たり、経験から学ぶことはできる。もし君が車輪のような素晴らしいもの(やそれに匹敵するような哲学的な何か)を本当に再発明したならば、そのことは極めて偉大な達成だろう。もちろん、君が本当にそれを再発明した場合の話だが。君がしたことが、授業で扱わなかった本で車輪について読み、それについて書いたということでしかないとしたら、それは君の創造的才能を示す証拠ではないだろう。(これが「調査」をしてほしくないもう一つの理由でもある。)

 6. この文章を終わらせる前に、トピックやテーゼを選ぶことについて触れておくべきかもしれない。君たちのうち多くにとって、このことはそれほど問題にはならないだろう。ふつう、ほとんどの入門コースでは、私はいくつかのトピックから選ばせるようにしている。その場合、どの問題が君にとって魅力的か――そして、どの問題に関して君は言うべきことがあるか――を決めれば、テーゼはすぐに決まるだろう。あとはどっちの側につくかの問題だ。

 しかし、いくつかの授業(上級コースの場合が多いが)では、私は物事を開かれたままにしておく。その場合、君はそのコースの主題に関連することなら(十分関連している場合だが)ほとんど何でも書くことができる。君は、授業で議論したが、他の著作がそれについて論じていないようなトピックを選ぶことも出来る。あるいは、授業で議論したり、読んだりした内容を越え出ているが、論理的にはそれらの内容と関係しているようなことを問題にするかもしれない。選ぶトピックが授業の主題と関係していなくてもよい、とまでは言わないが、トピックの選択に関して私はきわめて寛容だ(もしあるトピックが授業と関連するかどうかわからなかったら、私に訊いてくれればいい)。

 いずれにしても、授業と関連する事柄は何なのか、何が関連しないのか、重要な問題は何なのかを見分けることができるというのは、何か言うべきことがあるトピックを見つけ出すことができるという事だ。望むらくは、一つないしは複数のポイントに関して、授業での議論は不公平だったと考えることができるようになってほしい。あるいは、参考文献にあると紹介されたが授業では扱っていないような見解でも、君にとって擁護の価値があるというものを見つけてほしい。または、その見解のどこが誤っているかを明らかにできると考えるかもしれない。もっと言うべきことがあると感じた瞬間に立ち返ってほしい。それは、参考文献や授業内でのディスカッションですでに言われているとをただ繰り返す以上のことだろう。それらの問題のうち一つを、君のトピックとして選ぶのがよい。すると、君が本当に主張したいことを正確に表現しようとするのに集中できるだろう。それが君のテーゼを明晰にして、洗練させるという事だ。

 たしかに、ぴったりのトピックやぴったりのテーゼを見つけ出すというのはそれなりに手間のかかることだ。もちろん、その課題の一部には、興味深いトピックや興味深いテーゼを見つけ出すことも含まれる(つまらない主張や議論の余地のない主張を擁護するのは全く無駄だ)。しかし、もし君が自分の選んだ見解を擁護するうえで、何も説得的な事柄を見出せないならば、魅力的だったり論争的だったりするようなトピックを選んでも何の役にも立たないだろう。場合によっては、君が特定の問題に関心があっても、あるいはある立場を強く信じているとしても、君は言うべきことを持っていないということを認めなくてはいけないときもある。それでも先に進んで、何か別のことに取り組まなければならない。

 また別の機会では、言うべきことが多すぎて、限られた紙幅では自身の立場を十分擁護できないということを認めなければならないだろう。「適切な文量」に気づくというのは大事なことだ。論文でやろうとしていることが多すぎると、君は自分の見解を十分に述べて擁護するということはできないだろうし、結果として表層的で拙速で不明瞭な論文となってしまうだろう。幸い、ほんの少し心がければ、過度に野心的な計画を避けることができる――計画の中で比較的手におえそうなものはどれかを考えることだ。だが、計画そのものを見直し、何か別のものを見つけなければいけない場合もあるだろう。

 7. きっと、読者の中には、私がこれまで話してきたような種類の論文を書いた経験をかなり積んでる人もいるだろう。しかし、本文の冒頭で書いたように、それ以外の多くの人はそうした経験をほとんどもしくは全く持っていないだろう。どちらの場合でも、多くの人にとって、初めての試みから自身にできる最良のものをつくり出すことができるなどということはない。だが、それでいいのだ(たしかに、君たちには全ての論文で最高の出来を出して欲しいと望んではいるが)。私の授業を取り始める際に君たちが私の望むような論文を書く方法を知っているかどうかには、私はさほど興味がない。私が気にかけているのは、私の授業を終えた際にその方法をしっているかどうかだ。だから、もし君の論文が授業期間で目覚ましい改善を遂げていたら、私は後に提出された方、すなわち最初の論文よりも優れた論文の方をより評価するだろう。このことは約束する。