退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

ROMAを見た話――繰り返される類似と差異――

あらすじ

1970年、メキシコシティのローマで家政婦として暮らすクレオは、雇い主の奥さんやらその子供やらの世話をしながら、いい加減な男とセックスをして子供を授かったり、妊娠した状態で雇い主のクリスマスやら正月のイベントに付き合ったり、赤ちゃんを作って逃げた男に会いに行くも散々な態度で追っ払われたり、その後赤ちゃん用品を準備しにいったお店で暴動に巻き込まれ、産気づくも死産したり、雇い主の旦那さんが愛人を作ってとんずらこかれるなど、いろいろあってそれでも家政婦を続けていくのでした。

類似と反復

知人に勧められて観にいったのだけど、その際知人が「主人公の後ろのモブにフォーカスが当たっていたり、それが妙に不穏で気になる」と言っていた。確かに、主人公クレオと同様の掃除婦が移るシーンであったり、映画館でいちゃつくシーンで奥のカップルが妙に気になったりと、なんだかモブが気になる感じがした。

自分なりに解釈すると、これは主人公クレオの置かれた状況をほかの類似した例を示しながら明らかにするという働きがあったように見える。例えば、映画館でのカップルがずーっといちゃついていたのに対して、クレオの連れは戻ってこない。分娩室には多くの妊婦がいるが、手術室に移されて死産になったのはクレオだけだろう。クレオの身に起こったことは確かに悲劇だが、同時代には多くの類似した人々がいた。そして場合によってはクレオよりも悲惨なことになった人もいるだろう(暴動に巻き込まれて恋人?を失った人などが描かれていた)。

そう、クレオに起こったことはある意味ではじつにありふれている。そしてそれゆえに彼女はいかにも映画ったらしい悲劇のヒロインでもない。例えば、夫に愛人を作って逃げられた雇い主の奥さんは、少なくない点で主人公クレオと共通している。そもそも男に逃げられたのもそうだろう。しかし、終盤あきらかになるのだが彼女は生化学の研究者で、おそらくそこで夫とは知り合ったのだろう。彼女には学識があるので、それなりに高給な正社員の職が得られる。しかしクレオはただの召使である。一生を受動的に、普通の映画の主人公としてではなく、凡庸な悲劇のヒロインとして生きていくことになるだろう。それゆえ、雇い主の奥さんは「男が何を言っても女は独り」というが、クレオからすれば「女が何を言っても女は独り」といった形だろう。彼女は一丁前の悲劇のヒロインでも、そこから奮起して成功する女傑でもない。

この、「悲劇というほどでもない悲劇」というのは作品に通底している。地震は起こるが建物が崩れるほどではない、森が火事になるが全焼するほどでもない、子供は溺れるが溺死するほどではない。現実はこうした無数の「それほどでもない悲劇」から成っており、そして私たちはその世界を生きる。劇中最も派手な暴動の場面も、歴史家が語るならば大きな事件だろうが、いち家政婦のクレオにとっては何が何やらわからない。歴史についてこうした周縁の、無教養の家政婦の視点から描くことに自分は好感が持てた。

この映画は様々な悲劇を描いている。しかし、その中で最も取るに足らない悲劇、そしてその点で最も悲劇的な物語がクレオの人生である。