退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

20170627

お昼前に起き。朝ごはんを食べて、シャワーと坐禅をして学校へ。少しいい坐禅ができた気がする。

某部屋についてちとおしゃべり。今日は某さんのお手伝いをすっと言いだせてよかった。

その後某演習。カントの永遠平和論について。最近質問が曖昧というかいい加減になってしまう。今日は、カントの言う「国」は経験的な実際上の国家ではなく理性概念であり、理念としての国は必然的に他の国を要請するという箇所について質問した。私の質問は先の(おそらく発表者の読みである)記述に関して、ひとつは理念としての国が外部性を必然的に要請するのはその理念がそういう風にできてるからであって、国をそういう風に描写することの必然性はどこから来るのということ。第二は、ひとつめの質問はつまらない、というのもカントはここでおそらく超越論的な話をしていて、その言明に関して先のようなことを言うのは意味をなさないからである。するとカントは国の理念を提示するということで何を成そうとしているのだろうか、というものである。

当然第二の質問が本質的である。先日、LWの独我論について「それは“自己”とか“世界”をLWがいう風に規定すれば独我論が導出されるかもしれないが、そういう風に考えないことも可能ではないか」という質問を受けたのでそれを勝手に連想しながらした質問だ。しかし、おそらくLWの話に関していえば、それはおそらく可能性の必然的な条件の話をしているので、およそ世界が存在するとすればそのようなものでなくてはならない、という類の言明であるはずだ。さて、LWがこうした条件(超越論的条件)について言及することで何をしようとしていたかというのは大いに議論の余地のあるところである。カントも同種の問題に陥るんじゃないの?という質問だったわけね。

ちなみに回答は「とはいえ国という言葉遣いは現実に存在する国のあり方によって汚染されてるから、第一の質問がそもそも当たるんじゃないか(外部性を持たないものとしての国がありうる)」というさーっぱりわからん答えだったわけね。納得いかん。まあ分かんねえときも分かんねえなりに、ギリギリまで問いを切り詰めろってことだ。答える人のためにも。

終わって、某論理学。つつがなく終了。再来週の末に補講があるんだけど、その時間が格ゲーの大会と被ってる可能性があって参る。論理学の講義楽しいから出たいけど、当然大会も出たい。難しいね。

論理学が終わった後某部屋に行ったら誰もいなくて少し寂しかった。ふてくされてまぜそばを食べに行く。終わって、某部屋でだらだら。ひとりぼっちだとなかなか勉強に身が入らなくて参るね。とはいえ仲のいい某先輩はそろそろ海外に発たれる可能性があって、そうなると一人になることも多いだろうから、一人でもしっかり勉強できるようにならなきゃな。

もうたくさん書いたし、書く気がしないんだけど他にもいくつかトピックはあるね。某議員のハラスメントの話とか、某マッチングアプリの話とか。その辺はまた日を改めて。今日もよく生きた。