はじめに
今更ながら機動戦士ガンダムSEED Freedomについて書こうと思う。
結論から言うと、めちゃくちゃ楽しませてもらった。そもそも自分自身がSEED世代で、その後順当に00やら鉄血やらを楽しんできたので、20年ぶりに画面で躍動するキラ・ヤマトやアスラン・ザラ、そしてフリーダムガンダムに心躍らないわけがなかった。劇場からの帰り道に後藤リウさんの小説も電子書籍で買って読んだほど感動した。
こういうふうに同窓会的なファン向けの映画としては大成功している一方で、作品にはいくつかの違和感を抱いていた。それをずっと考えていたんだけど、最近ぼんやり言葉になりそうなので、まとまった文章として残しておこうと思う。
コズミック・イラという救いのない世界
SEED Freedomという最新の作品について語る前に、本作の物語が繰り広げられる世界について語っておこう。ガンダムSEEDというシリーズの作品群が展開されている世界は「コズミック・イラ(CE)」という暦を採用しており、そのまま作品世界を言い表す用語となっている。そしてこのCEという世界において最も重要なことは、この世界では人類がナチュラルとコーディネーターの二手に分かれて対立しているということである(必ずしもこの記述が正しいわけではないのだが)。
「コーディネイター」とは出生前に遺伝子操作を施された人々のことであり、そうした措置を受けていない「ナチュラル」とは比べ物にならないほど身体的・知的能力に優れている。そしてコーディネイターとナチュラルが自由に競争を行えば、様々な場面でコーディネイターが勝利するため、一部のナチュラルはコーディネイターを敵視するに至っている。「ではすべての人が遺伝子操作をすればいいではないか」と思うかもしれないが、経済的な理由や宗教的な理由からコーディネイターとして子どもを産むことができない人は作中世界にたくさんいたようだ。また、コーディネイターも遺伝子操作の結果として受精が成立しづらくなっており、世代が下るにつれてその問題は申告となっていることが作中でも描写されていた。このコーディネイター対ナチュラルという救いのない対立が、コズミック・イラという世界の根底をなす世界観である。
一方には自分の子どもたちに優れた能力を与え幸福な人生を願う気持ちがあり、他方でそうした行為が全体として絶滅へ導くという状況がある。こうなってくると、「ナチュラル」という語はいわば二通りの意味を持つ。すなわち、子の幸せを願うこと、優れた能力を実現できる技術があればそれを利用するのは「当然(ナチュラル)」だという言い分、それに対してそうした技術は「自然(ナチュラル)」に反しており、行うべきではないという言い分だ。こうなってくると、遺伝子操作を施していない人間からすれば、コーディネイターの能力の高さは彼らの道徳的堕落を示すもの、ナチュラルの道徳的正しさを示すものとしてたち現れることになる。このように、どちらの言い分にも譲れない一線があり、その緊張が限界まで高まっている。
そうした中で、初代機動戦士ガンダムSEED(そして作品で描かれるよりも前から)コーディネイターとナチュラルの勢力は戦争状態に陥っているわけだが、この戦争は通常の意味での戦争ではない。というのも、戦争というのは国家と国家、都市と都市でなされる場合、あるいは国家とテロリストの間でなされる場合においてさえ、対立勢力の完全な消滅を願ってはいないからだ。国家間の通常戦争であれば、有利な状態で講和条約を結び、領地の割譲や賠償金などで自国の利益を得ることが目的とされるし、テロルの場合でも基本的には自身の属する勢力の利益や主張を認めさせるために実行される。SEEDシリーズで描かれるコーディネイターとナチュラルの対立は、完全にお互いがお互いの消滅を願う絶滅戦争と化している。核兵器が民間人の住むスペースコロニーに向けてバンバン撃たれるありえないレベルの終末戦争である。
そんなとんでもない地獄のような世界がどのようにTVシリーズで結末を迎えたかというと、つまるところコーディネイターの軍隊を上回るレベルで有能な少数の個人の集まり(主人公サイド)が力によって抑え込んだのだというのが私の解釈だ。ヒロイックなメカニックや主人公たちの活躍はエンターテインメント作品としては面白かったが、結局コズミック・イラという混迷する社会における解決策を主人公サイドが持ち得ず、今後も戦乱の世が続くだろうという不安を残したまま、とりあえずの平和をもたらしてTVシリーズは終了する。そこから約20年の時を経て発表されたのが本作である。
SEED Freedomという作品はどのような作品だったのか
『機動戦士ガンダムSEED Destiny』が2005年に放送が終わり、そこから約20年を経た2024年に公開されたのが『機動戦士ガンダムSEED Freedom』だ。この20年の間に、世界の分断と不安は取り返しのつかないレベルまで急速に進んでしまった。このような社会情勢の中で、新しいSEEDという作品はどのようにオーディエンスに語りかけてくるのか、私はとても楽しみだったのだが、ある意味では肩透かしを食らう形となった。
前半では、TVシリーズのあとも復讐の連鎖が続き荒廃しきった社会、そして疲弊しきった主人公キラ・ヤマトの姿が描かれる。これはもう本当に痛ましい映像であり、見ているだけで胸が苦しくなるほどだった。戦う人たちも、未来のために戦っているのではなくあくまで戦争で失った人たちの仇を討つために戦っていて、それを止めようとするキラも武力ではまさるものの、彼らを救うことはできないでいる。
こうした中で出てくるのが、本作の黒幕である「ファウンデーション王国」である。彼らはナチュラルもコーディネイターも関係なく共生できる社会を謳い、脅威の経済成長率を記録している。デュランダル議長を失い、ラクス・クラインも未来のビジョンを示さないでいる中で、ファウンデーションの掲げる理想像が同時代の人々にどれほど甘美に響いたかは想像に難くない。
それどころか、ファウンデーションの掲げるビジョンは主人公であるキラの心をも捉える。前作の最後にデスティニープランというビジョンを示したデュランダル議長と力によって向き合い、力によって制したキラたちだが、その行いは果たして世界にとってよいことだったのだろうかというキラの葛藤が描かれる。キラたちは戦後も停戦を監視する組織の一員として世界中武装勢力やテロリストを平定している。力だけでは世界を救うことはできない、しかし自分にはモビルスーツを扱うという力しかないというキラの葛藤は、キラの最愛の人であるラクスとのすれ違いや不和すら招いてしまう。これほどの事態に陥ってしまった世界をどうすることができるんだろうという疑問が前半を鑑賞する際に感じていたことである。
それでは機動戦士ガンダムSEED Freedomという作品は、どうやってこの地獄から世界とキラ(をはじめとする主人公たち)を救おうとしたのだろうか。結論から言うと、問題をラクスとキラの間の個人的な愛情の問題にすり替えることによって、である。先に述べたような絶望的な状況に陥った世界、そしてその対応に摩耗するキラの精神という極めて重く暗い調子が漂う前半パートに比較して、本作の後半はファン要素もりもりオールスター大サービス映像となっている。例を挙げればキリがないが、キラとアスランの殴り合いとか、デスティニー多重影分身とか、エッチなことを考えて敵の思惑を外すアスランなど、マジかよというようなシーンが連続する。そして自身とラクスの間の愛の強さ、絆の確かさを確信したキラによってファウンデーション勢は一気に駆逐される。確かに、前半の陰鬱な雰囲気と比較したときの後半のいい意味での馬鹿さ加減が気持ちいい対比となって、鑑賞後の気分は晴れやかだった。旧キャラそれぞれに見せ場があって、新キャラもキャラが立った活躍を見せてくれるし。
しかし、他方で「これでよかったのだろうか」と考えてしまう自分もいるのである。知っている人も多いと思うが、ガンダムSEEDシリーズの脚本を担当していた両澤千晶さんは、本作が公開されるよりも以前、2016年にその生涯を終えている。そしてこの作品の前半部分は両澤さんの脚本によって制作されており、後半は小説版も担当している後藤リウさんによると聞いている。両澤さんは生前も健康問題を抱えており、制作作業が必ずしも捗々しくない日々だったと言うが、劇場版SEEDの制作が進まなかったのは、必ずしも彼女の体調不良だけが原因ではなく、やはりコズミック・イラという世界にどのように幕引きをもたらすかを彼女自身が結論できなかったからなのではないか、と私は考えている。そう考えると、前半部分の重く苦しい世界観と、その対比としての後半部分の晴れやかさも、素直に受け取ってよいのだろうかという気がしてくるのである。
キラたちは今回も、遺伝子的な合理性や能力によって序列づけられた世界から、人々の自由を守った。でもそれはあくまで彼らの個人的な才覚によって可能になったのだし、キラたちの動機を支えていたのはごくごく個人的な愛情だった。結局本作で描かれた時間の後も世界は混迷を極め続けていくことは想像に難くない。そこで彼らはどのようなビジョンを提示できるのだろうか?隣人や恋人を愛せよ、ということなのだろうか。それはわからない。