退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

哲学論文の書き方 How to Write a Philosophy Paper(前編)

なんであれ論文を書くのは難しいです。理系はもちろん、文系でも、実験やフィールドワークを含む心理学や社会学は、きちんとした仕方で論文を各ハウツー本などが出回っており、方法論が普及しているのではないでしょうか。これに対して哲学はなかなかそうしたハウツーがありません。哲学の文献を数冊読んで、どうしたらよいか立ち尽くすということもあるでしょう。哲学だからといって、心の赴くままに書くのでは論文とは呼べません。

ではどうしたらいいのでしょうか。本記事では、生命倫理学などの分野で著名なアメリカの哲学者・倫理学者であるシェリー・ケイガンのハンドアウトを見ていきます。卒業論文等に悩める学生の皆様にとって、わずかでも助けとなれば幸いです。

 

※本記事は、米国イエール大学の哲学教授Shelly Kaganによる"How to Write a Philosophy Paper"の全文翻訳です。元となる文章はこちら。以下、翻訳。

 

哲学論文の書き方(シェリー・ケイガン、哲学科)

 

1. 私に向けて君が書くどんな論文も、同じ基礎的な課題に基づいているはずだ。その課題とは「テーゼを述べ、それを擁護せよ」というものである。すなわち、君は自身が正しいと思う立場を確立し、それからその見解を支持する論証を与え、批判を検討し、それらの批判に応答しなければならない。言い換えれば、君は自身の論文の中心的テーゼを信じる理由を与えなければならない。

 君たちの中には、こういった論文を今まで書いたことがないという人もいるかもしれない。そこで、君たちがおそらく書いたことがあると思われる、異なる二種類の文章と哲学論文を比較してみよう。第一に、私は「書評」を求めてはいない。私は一つもしくは複数の著作に関する要約を欲してはいないし、様々な著者や道徳理論が述べていることの「比較検討」をしてほしいとも思っていない。そうではなく、私は君に「自ら危険を冒す」ということをしてほしい。関連する問題に関して、君自身が真理だと思うことを伝えてほしいのだ。そのうえで、その立場を擁護してほしい。もちろん、何人かの著者やその見解について議論するというのは、論文と関係するし、有益だろう(ひょっとすると、課題によっては必須かもしれない)。しかし、その場合でも協調すべきなのは、その著者や見解を評価するということである。どれほど優れたものであっても、読書感想文は課題を満たしていない。

 第二に、私は「Xに関する考察」や「Xに関する思考」、「Xに関する反省」などを求めてはいない。与えられたトピックに関して君が行った反省を単にまとめ上げるということをしてはいけない。たとえその過程で君が様々な主張を抱くようになったり、自身の見解を擁護する理由を提供するようになったとしてもだ。論文というのは、唯一の、中心的なテーゼを持たなければならない。論文の核心となるのは、そのテーゼの主張と擁護である。論文に含まれる様々な事柄は、その中心的なテーゼを最善の仕方で擁護するために選ばれ、まとめ上げられるのでなくてはならない。(たとえば、意識の流れるままに書くというのは、素材をまとめ上げるやり方としてはつまらないし、主となるテーゼとは関係がないものまで含んでしまいがちである。)どれほど優美であっても、単なる反省では課題に応じてはいない。

 

2. 上で述べたように、論文というのは中心的なテーゼを述べ、それを擁護するべきだ。より詳しく言えば、それは以下のようなことをすべきということである。

 A)論文というのは、テーゼを明快な仕方で主張することから始めるべきだ。文字通り第一文からこうする必要はない。しかし、テーゼは少なくとも第1あるいは第2パラグラフには提示されるべきだろう。テーゼを明快に、表立って、正確な仕方で述べていない論文というのは非常に多い。このようなことをしてはいけない。君が採る立場というのは君自身にとっては明らかなものかもしれないが、私にとってはそうではない。

 はっきりとテーゼを述べ立ててはいるものの、それが最後のパラグラフにあるという論文もある(「ああ!これが筆者が言いたかったことなのか!!」となる)。こういうのは、短い物語を構成するにはドラマチックで優れたやり方かもしれない。しかし、哲学論文を構成するには非常にマズいやり方である。君の見解を形作ろうとしているような論文を読むのに、私は時間を費やすべきではない。そうではなく、私が費やすべきなのは、君がその見解をうまく擁護できているかどうかを決定することなのである。

 もし君が論文の中心的テーゼをはっきり、正確に、歯切れよく述べられないならば、それは君が自分の言わんとしていることを本当はわかっていないからだろう。自分のテーゼを声に出してみよう。そこでもしまごついてしまうとすれば、それは君の論文のポイントについてより深く考えなければないというサインである。

 (確かに、君の見解を短く述べてしまうと、本当はそこに含まれるべき制限が落ちてしまうということもあるだろう。だが、まずはじめに一般的だがいささか不正確な仕方でテーゼを述べるというのは問題ない。その後で「もちろん、この主張は以下のような制限を必要とする」とか、「もちろんこの主張はいくらか制限される必要があり、それらの条件については適切な箇所、論文の後半で触れる」などと言えばよい。しかし、こうした言い回しが頻繁に出てくるとすれば、それはよくない兆候だ。)

 B)自分のテーゼを述べたなら、次に君がしなければならないのは、そのテーゼを擁護すること――つまりそのテーゼを信じるための論証や理由を与えるという事――である。哲学というのは、たとえその意見がどれほど深淵であったとしても、単に意見を述べ立てるだけではない。哲学では、可能な限りもっともらしい根拠で自分の意見を補助する必要がある。確かに、善い論証はどのような形のものかとか、どのような種類の論証が最も強力か、といった一般的なことに関して、この時点で何か助言を与えるというのは難しい。こういった事柄の大部分は、擁護しようとしているテーゼに依存しているからだ。しかし、説得的な論証の仕方を学ぶというのは、ほかのスキルと同様、練習を要するものであるという事を言っておきたい。練習すれば、スキルは上達するものだ。

 また、よくある誤りについても警告しておきたい。自分の見解を擁護するために、できるだけ多くの論証を与えようとする人がいる。わずか5ページの論文に12もの論証があるが、それらの論証はせいぜい1パラグラフ、場合によっては1文、2文ということもある。これはテーゼを擁護するいいやり方とは言えない。というのも、当然の結果として、どの論証も説得的な仕方で発展させられておらず、いずれも浅薄なものとなってしまうからだ。こうしたやりかたではなく、君がやるべきなのは、自分の考えを支持する唯一の(多くても二つの)もっともすぐれた論証を考え、そのうえでそれらを表明し、詳述し、発展させることに紙幅を費やすという事である。正直に言って、慎重かつ丁寧に優れた論証を提示する場合、短い論文というのはなんとかたった一つの論証を提示するスペースを持つにすぎない。したがって、君のテーゼにとって最重要なただ一つの論証がいかに機能するかを正確に述べることができれば、多くの論証を並べるよりはるかに君のテーゼを擁護することになるだろう。

 C) どれほど馬鹿げた考えであっても、その考えを擁護するようなことを言うのは、多くの場合可能である。それゆえ、本当に問題となるのは、君が自分の立場をどれほどうまく反論から擁護できるかということである。優れた哲学論文というのは、一つないしは複数の厄介な反論を扱い、それらの反論に応答しようとしているものだ。

 繰り返しになるが、最も優れた反論がどのようなものかについて、一般的な仕方で語るのは難しい。反論の中には、君が与えた論証潜在的欠陥を指摘するものもあれば、直接君のテーゼを攻撃するものもある(前者は君のテーゼがうまく擁護されていないと考える理由を与え、後者は君のテーゼは偽であるに違いないと考える理由を与えるものだ)。この場合においても、最も重要な反論を見分け、論文中で提示するスキルは、練習して磨かれるようなものである。だが、「君が言ったことに納得していない、本当に賢い人を想像してみる」というのは役に立つ。そういう人は、何に対して不満を述べそうだろうか。

 先ほどと同様に、できるだけ多くの反論を扱おうというありがちなミスを避けることは重要だ。もっとも重要で、もっとも厄介な反論を一つないし二つ取り上げ、それらに集中するほうがよい。

 一つもしくは複数の反論を提示したならば、それらの反論に応答を与えることはもちろん重要だ。反論が真に扱う価値のあるものだとすれば、それは君の議論にとって非常に厄介な問題を提起しているはずである。なるほど、するとその反論のいったいどこに問題があるだろうか。その反論を受けてなお、君が自説を放棄しないのはなぜだろうか。反論が何か誤った前提に基づいているからだろうか。あるいは、反論によって君の見解は修正を余儀なくされるだろうか。君はそれらの反論が全く馬鹿げたものにすぎない、といったそぶりを見せるべきではない(もし本当に馬鹿げたものだとしたら、それらを取り上げることに思い煩うべきではない)。君がすべきなのは、それらになしうる最善の応答を与えることだ。

 D)ここまで私が述べてきたことのせいで、正しい論文の構成というのは「テーゼ、論証、論証、反論、反論、応答、応答」といったものなのだという印象を与えたかもしれない。しかし、実のところこういったやり方は論文の構成としてはあまりよくない。というのも、こうしたやり方では、論文の各部分が論理的に結びついていないからだ。関連する論証のところで反論をあげる方がよりよいだろう(あるいは、論証を手短に行って、それからそれに対する反論をあげるのもいいかもしれない)。そして、反論をあげたらその直後に応答した方がよい。それから、新しい反論や、新しい論証に移るのがよい。もしこれを実行すると、「テーゼ、反論、応答、新しい反論、応答、新しい論証、反論、応答」といったものになるだろう。どう見ても、このアウトラインに関して魔法めいたものは存在しない。つまり、成功するかどうかは、アウトラインではなく細部にかかっている。しかし、論文の各要素をうまくまとめるためにできることはするべきだ。

 E)哲学には「ノックダウン」型の論証というのはめったにない。だいたいの場合、あるテーマに関して、複数のもっともらしい見方というのがあって、君が擁護している立場に反対の論証もあれば賛成の論証もあるものだ。それゆえ、もし君が自分のテーゼを提示し、論証とそれに対する反論を与え、さらに応答するというのを公平に行った場合、問題の両方の見方に言い分があるという事を認めなければならないだろう。

 だからといって、こうした状況を引き分けだと考えなければならないわけではない。たとえ両方の立場が「完全に論駁されたわけではない」としても、その論証のどちらか一方がより優れていると考えることは出来る。つまり、どちらかの立場がより説得的で、より自説をうまく擁護できていると考えられる。願わくば、君が擁護しようとしているのが、より優れた立場であればよいのだが(もしそうでないならば、立場を変えて、論文を書き直さなくては!)。それゆえ、論文の結末では、簡単に君の立場の強みと弱みをおさらいし、そのうえで君の見解がなぜ最も見込みのある立場なのかを説明するのがよいだろう。

 繰り返しになるが、君の論文を読む人全員を納得させようとしてはいけない。そんな目標は多くの場合達成不可能なものだ。そうではなく、自身の見解を最善の仕方で擁護することを目標とし、それがなされてもなお、反対する人はいるという事を認識するべきだ。

 

3. 論文執筆に取り掛かる際、なにをすべきだろうか。まず君がすべきこと、それは考えることだ。何かを書こうとする前に、たくさん考えなくてはいけない。考えるべきことはたくさんある。書こうとしているトピック、それにまつわる諸問題、君自身の見解、その見解を支持する理由、自身の立場の弱点、自身の見解に対するありうる反論、そしてもう一度これらについて考えるべきかを考えなければならない。そのため、締め切り直前になって一晩で書き上げようとしてはいけない。そうすると、考える時間(そして自分の考えを変える時間)はほとんど残らなくなってしまう。だから、まずは数日さまざまなことについて考え、自身の信じるものをはっきりさせよう。

 言いたいことがある程度固まったら、論文の草稿を書こう。これを最終的なものとみなしてはいけない。そう考えてしまうと、君の書くものは拘束され、書く過程で新しいアイデア(新しい問題、新しい問い、新しい論証や新しい応答)を発見することに恐れを抱いてしまう。完璧にしようとする必要はない。一度論文全体の草稿を書き上げたら、放り出してしまおう!草稿を寝かせるのだ。それを朝の醒めた頭で見返してみたり、なにか別のことを考えた日の後に見直してみよう。すると、論文中の何が意味を成していて、何がそうでないか、何が重要な仕方で論点とかかわっているか、何が説得的か、あるいはどの部分がより展開され、明快にされるべきか、どこがそうでないか、どの部分が優れていて、どの部分がしょうもないか、といったことが新鮮な目線でよくわかる。そして、これらすべてを見た目線をもって(そのうえで新たに見つけた難点を考えた後で)、論文をもう一度書こう。君は元の草稿を捨て去って、全体を初めから書き直したいと思うかもしれない。あるいは、元の草稿を土台にして、修正し、拡張させて、必要であれば部分をカットするという風にやりたいかもしれない。どちらのやり方にせよ、よりうまくやるには、草稿を書き直すということが重要だ。

 最後に挙げたポイントは、どれほど強調しても、しすぎるということはない。書き直すという習慣を身につけるということほど、君の執筆の質を向上させるものはない。これは絶対だ。

 理想的に考えれば、書き直されたバージョンでさえも最終稿ではないだろう。もう一度書き直してもよいし、それをさらにもう一度書き直すこともできる。しかし、たとえ君にとって本当に満足のいくバージョンに仕上がったとしても、それでも論文を改善するためにできることが残っているはずだ。友達に見せるのだ。同じ授業をとっている人や、賢そうな友人を探し、君の論文を読むよう頼むとよい。それから――彼女立ち自身の言葉で――君の論文のテーゼは何なのか、君はそれをどのように擁護しようとしているかを言ってもらおう。もし彼らがそれらを述べられない場合、論文が求められる基準よりも明瞭でないか、よく構成されていない公算が高く、これによって書き直しすべきことは何なのかが分かるだろう。もし非常に幸運であれば、論文に関するやり取りの中で、君が見落としていた重要な反論を友人が指摘してくれるかもしれない。あるいは、どうすれば君の論文をより明快に、よりシンプルに、より説得的にできるかに気が付くかもしれない。すると、論文に立ち戻ってそれを改善することができる。(かならず脚注で友人の考えに謝意を示すこと。)

 ところで、君たちの大多数が、執筆して、修正して、もう一度修正して、他人に見せて、それをもう一度修正するだけの十分な時間(と気持ち)があるなど、私は夢想してはいない。君たちに別の授業やほかになすべきことがあるということ、そして君たち自身の人生があるということはわかっている。しかし、こうやって論文を練り上げていく過程を理想的なものだと考えたうえで、君にできる事をやるというのは可能だ。というのも、書き直しこそが、よく書くことの秘訣だからだ。ここで述べたことをやればやるだけ、君の書くものはよくなるだろう。

 

(翻訳ここまで)

前半は以上です。

後半部分はこちら。

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