退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

20161111

9時半起き。身支度と洗濯、短めの瞑想をして学校へ。途中お金を下ろす、きちんと振り込まれててにっこり。ポッキーを二箱、無事ポッキー風船をもらう。食堂でご飯。

某部屋について、しばらく某先輩と歓談したのちアルバイト。パソコンの使い方が下手くそすぎる。まあまあ楽しく仕事。

某演習。発表者が自分の発表がないものと思い込むという圧倒的珍事。小学生の頃、先生が怒って教室を出て行って緊急学級会議が催されたのを思い出した。のち某カント。今日も彼の一流の仕事を目の当たりに出来て感動した。昨日わからんと思ってたのはなんだったんだ。

晩御飯は某串カツやで飲み会。たらふく飲ませてもらって満足。しかし今日も某案件を切り出すことができなかった。座る位置を考えるか。会計の際某先輩Bに1,000JPY貸し。解散したのち某先輩Cと某部屋で映画鑑賞。いい映画だった。

 

メモ

実践理性の要請によって、神の現存在や積極的自由、魂の不死といった、対応する感性的直観を持たない純粋な理性概念は客観的実在性を獲得する。しかしこの客観的実在性は、当然感性的直観が与えられる場合のものとは異なる。つまりそれら諸理念について積極的に何かを語ることはできない。ただそれが「ある」といいうるのみであるし、それは実践理性が意思を規定する際にそうであるに過ぎない。従って「神は天と地を作った」や「魂は重さを持つ」などと言うことはできない。

だから理性の拡張ということでここで言われていたことは、誤解を正すということだと思う。実に自分好みだと思う。ただ気になるのは、あるものがそもそも可能であるならば、その際に必然的にどのような条件が付されるか、というのは何を語っているのかが気になった。それは侵犯ではないか。

フェミニズムとかも、実は自分好みなところはそれが積極的テーゼを持たないところにあるのかもしれない。「普遍性」や「客観性」と述べた際、明に暗に前提とされている権威、また誤解を明らかにするが、普遍や客観をそれ自体定式化できるような力はフェミニズムにはないと思う。

気取った言い方をすれば、虻ってことで。