9時前に起き。せかせかと身支度をして、部屋で瞑想を済ませて学校へ向かう。途中で某ベーグル屋のドーナツを買う。もちもち。
某おしゃべり。まあいろいろ話す。来週が祝日ということで、次は再来週になりそうだ。終わって某ツレがウツになった漫画を読む。なるほろ。
某部屋にて昼ご飯など。某後輩と部活動の話など。パスカルの愛の客体としての自己というスンバラシイ話も聞く。
某勉強会。某教科書がやっと終わった。しかし自分は少し喋り過ぎてしまう。もう少し周りにも喋ってもらおう。
おしゃべりしたりしたのち、某中華料理屋へ。某後輩たちと一緒。相変わらずめちゃんこうまかった。帰りに好きな女の子の話など。某部屋に帰って、某予習。あまりはかどらず。某ラテン語も。残りは明日に積み残し。
帰宅。某餃子屋でたらふく飯を食べる。アホか。某萌え絵について某先輩とおしゃべり。
いわゆる萌え絵について、「それが有害だから萌え絵の生産・消費をやめるべし」と言うのが一つのゴールだとする(自らの偏向したジェンダー観に気づけ、と言うのはなかなか難しそうだ)。
すると上の命題はは以下のように分析できる。
1.萌え絵の生産・消費は何らかの意味で他者に危害を加える
2.個人や集団が、ある人の行為の自由を制限してもよいのは、その人の行為が他者に危害を加える場合であり、その場合に限る。
3.1と2より、萌え絵の生産・消費は制限してもよい。
2に関しては、いわゆるミルの他者危害原理なので、取り立ててこの問題で扱うべきものではないだろう。とするとやはり1が問題になる。果たしてこれは真だろうか。
「萌え絵が危害を加える」といったときに真っ先に思い浮かぶのが、それが不快だからというものだろう。しかしこれに関してはミルも述べている通り、単に不快だからというだけでそれを検閲したりすることは許されなように思われる。というのも、政治家の不正を暴く文書は当の政治家本人にとっては不快極まりないだろうし、そうでなくてもある主張に対する反論などはしばしば不快な感じを引き起こす。
おそらく多くのフェミニストなどは、前述のような仕方で萌え絵の危害を描かないだろう。彼女たちは「萌え絵が、女性を男性に性的に従属するものとして描いており、そのようなジェンダー観を固定するがゆえに有害だ」と論じるのではないだろうか。
さて、これはさらに三つの論点に分けることができる。
A.萌え絵は、女性を男性に性的に従属するものとして(実際に)描いている。
B.女性を男性に性的に従属するものとして描いたものの鑑賞は、そのようなジェンダー観を固定する働きを持つ。
C.「女性は男性に性的に従属するものだ」というジェンダー観を固定することは、人類社会全体(あるいは日本国など)にとって有害である。
Aに関しては「萌え絵はそのような仕方で女性を描いてはいない。そのように見えるとしたら、鑑賞者の歪んだジェンダー観が反映されているに過ぎない」といった反論がありえる。Bについては、「萌え絵を楽しむ人は二次元と三次元の別を弁えており、飽くまでファンタジーとして楽しんでいる。そのような人が私的に鑑賞するための所持は認められるべきだ」といった主張が、Cに関しては「そのような抽象的な危害を、ミルの危害原理に放り込むことができるのか、そもそもそのような社会は本当によくないのか」といった反論があり得るし、またインターネット上では上述のような主張がしばしばなされているように思われる。
ここまで行った分析が正しく問題を切り取れているか、また各反論に対して、それをやっつけられるかはまあ知らん。