退屈な話

「書かないことは、なかったこと」 せっかくパソコン持ってるので日記を書きます。

人間らしさの話ー『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の死

・私は人間らしさを感じたい

自分は人間らしさ、人間のリアリティを見てみたいなあと常に強く感じている。現実の社会でもそれを目の当たりにすることはあるが、その多くはフィクションの中で感じる。

 

自分がどういう時にそのような人間らしさを感じるのか、それは上手く言葉に出来ない。例えば人間の醜さを見たら感じるのか、崇高さを示された時にそうなるのか。ネガティヴな面でもポジティブな面でも嬉しくなってしまうことはあるのでどちらとも言えない。だから一つ具体例として表題の『カラマーゾフの兄弟』内の一つのエピソードを紹介してみようと思う。

 

・ゾシマ長老の死

カラマーゾフの兄弟』というタイトルをご存知の方は多いだろう。内容としてはカラマーゾフ家の三兄弟、そして彼らの父親が織りなすいざこざって感じである。

そして本作の登場人物の中にゾシマ長老という人がいる。この人は主人公たちの地域の教会の長老である(正教会においては、各教会に司祭ではなく長老という立場の人がいるらしい)。ゾシマ長老は大変人間的に優れた人物で、他の教会関係者や世俗の人々からも尊敬を集めており、カラマーゾフ三兄弟の三男であり、修道士であるアレクセイに多くのことを与える。

そんなゾシマ長老は作中で病気のために死亡し、葬儀が執り行われることとなる。彼の死に前後して、どこからか「ある聖人は死してもその体から腐臭が漂うことなく、それどころか芳しい香りしたらしい」という話が流れる。そして人々は「あれほど立派な人物であり、聖人に列せられるうるようなゾシマ長老もそのような奇跡を起こすかもしれない」という期待を抱くようになる。

しかし、そのような奇跡は起こらず、夏の暑さの中、ゾシマ長老の遺体は徐々に臭い出すのである。そんな現実を目の当たりにした人々の一部は、聖人の失敗を見て溜飲を下げるような暗い感情すらいだく。

自分が紹介したいエピソードはここまでである。最後に読んだのはずいぶん前だし、うろ覚えなので細部で異なるかもしれない。

 

坂口安吾文学のふるさと

このエッセーについては青空文庫にあるし、読んでもらったらいいと思う。

安吾によれば、童話や小説の多くはなんらかのモラルを前提にしている(ここでのモラルという言葉は、狭い意味での道徳ではなく、人間間に慣習的な決まりごとを指しているように思われる)。ところがいくつかの物語はそのようなモラルがないという点で例外的である。

そういった例外的な物語の例として『赤ずきん』と狂言、芥川の弟子の農民の話などを挙げる。こういったものに対して、安吾は「いきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切れた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、一つの切ない「ふるさと」をみる」のである。

 

自分もまた、上述のゾシマ長老の死にまつわるエピソードになんらかの凛とした静けさ、物悲しい歓びを覚える気がする。

他方で、このようなアモラルな「ふるさと」は帰ってきてよい場所ではあるが、そこにとどまって生活する場ではないという。だが、こうした寂寞の上に築かれない仕事は信用に値しないという安吾の言は自分も大いに賛同する。

自分もハッピーエンド、モラルを伴った大団円は大好きだ。しかしそれが人間の孤独、生の事実の根の上に立つものでなければ、自分はそういったものにコミットできないだろう。

寂しさを振りかざすのではなく、かといってその根の上に立つことをやめるのでなく、噛み締めて生きていきたいし、そういう均衡をみたい、というのが自分の欲なのかもしれない。